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Avr

エリック・ピファーリング*ラングロール

今日はフランスで有名なワイン雑誌、 『le Rouge et Le Blanc*ル・ルージュ・エ・ル・ブラン』で見つけた、エリック・ピファーリングのインタビューを紹介したいと思います! Le Rouge et Le Blanc n° 96 « Tavel la vie en rosé » 今回はローヌ地方の特集です。 今回はエリック、そして次回はエロディ・バルムの取材をアップしますので、楽しみにしていて下さい! 独特なロゼ・タベルを造っているドメーヌ・ド・ラングロール、エリック・ピファーリング氏のワインは、モダンというよりも、シャトー・マニシのロゼのように伝統的な味が印象的。 彼の過程は土地やブドウ木、果物の実とワイン全てを由来とし、ワイン生産者として楽しみと味わう喜びを尊重しています。 ピファーリング一家では、昔から心に響いたことはとにかく優先。1970年代、エリックの父はミツバチに興味を持ち、以前からやっていた機械仕事を辞め養蜂の道に進みました。そしてエリックは自然と親の情熱を受け継ぎ、ガール地方でも蜂の病気や蜂に悪敵なヴァロア(ダニ)のアタックについて全面的に戦ってきました。そして1980年代の後半に家族のブドウ園を受け継ぎ、養蜂家及び生産者となりました。『養蜂家の頃と同じ仕事をしている感じ』とエリックも言うほど、花やアロマなど彼自身が好んできた要素が両世界にあったのです。 義理の父から土壌の仕事を教わり、最初は協同組合員としてスタート。しかしエリックは、『環境を尊重した栽培方法』を改善し、タベルに広めた一人でもあります。時が経つにつれ彼の考えはより深くなり、当時エステザルグ協同組合のディレクターを務めていたジャン・フランソワ・ニック氏の影響を受け、エリックは徐々にビオ栽培の方向へと進んでいきます。そこで彼の励ましとなったのが、先駆者であるジュル・ショベ氏や、モルゴンで有名なマルセル・ラピエール氏、ジャン・フォワラール氏のワイン造りの方式。また、シャトー・ド・マニシでタベルのワインに付いて多くの知識を得たフレール・ロジェの開放的で感情性の強い性格が、エリックにとって大切な目標となったのです。そこから、彼の中では『原料に信頼性を持てるからこそ造れるワイン』という考えが生まれたのです。:健全なブドウが生り、テロワールの魅力が表現される畑作業を行い、化学物質を添加しないで、果汁が発酵や熟成中自由にブドウのポテンシャルを引き出せる環境造りに手を掛けました。 2002年、大量に降った雨はミツバチの巣を全て奪い、収穫の半分以上が破壊:自然は時には厳しいですが、それでもエリックは生産者になろうと決心しました。 そして40歳になった時、彼はタベルの協同組合を辞め、自分のワインを造り始めたのです。 このドメーヌの畑では、化学物質は一切不添加の上、各テロワール、各ブドウ木、そして気候情報に適合した畑作業を行っています。『ブドウ畑は私に新たな活力を与えています。その事実に気付いたのです。』というように、経験と直感、そして強い感情も大切なのです。 『この様な仕事をするには、土壌と特別な関係を築いて行かないといけません。土に対して愛情を抱いていないといけないのです。』 土の通風や水の状態、植物の間に生まれる競合、又ブドウ、そして発酵中の果汁には必要不可欠である窒素の存在など、これらをコントロールするにはブドウ木と他の植物のバランスを保つことが重要です。 そして何よりも大切なことは、ブドウ木からワインになるまでの段階を見守ること。まさにローマの古代人のワイン造りに似た方法です。 エリック・ピファーリングは尚古主義ではなく、ただタベルのワイン造りに関する古い歴史と、今現在テロワールを感じながら進める作業を歴史に残して行きたい強い意志の持ち主なのです。 ワイン紹介 ロゼの色は普段見かける薄いピンクではなくしっかりとした色合いで、おそらく昔に造られていたロゼの色に似ているのでしょう。とてもリッチなアロマはとても爽やかで心地良く、花やオレンジの皮、スパイスなど、ドメーヌの独特的な繊細さが溢れています。そしてもちろん『自然』が大いに感じられる、飲めば飲むほどはまって行くワインです。 2007年タベルの点数 20点中16(一番高い点数 - 平均点数12.5/20) 。 とても豊富なアロマ:ヨードやトースト、乾いたハーブやオレンジの皮。又、スパイスやお花、フレッシュなフルーツの香り。 とても繊細なミネラルが感じられ、焦がれたハチミツや花の香りが凄い。とても滑らかな味わいで長く続く綺麗な後味。とても複雑で飲みやすいワイン。 2009年ヴィンテージの点数 20点中15.5(一番高い点数 - 平均点数12.5/20) 。 バラの花や綺麗なハーブの香り、そしてフランボワーズやイチゴの繊細なフルーツのアロマが複雑感を与えています。まろやかで爽やかな味わい、そして最後にはピリッとした苦味がまた美味しい!力強さもあり、フィナーレはとてもエレガント。一度飲んだら止まらない、自然で胸を打たれるような上品なロゼ。2007年、2008年ビンテージに続き、独特的なタベルです!

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Fév

無心の極み!究極の旨み!ラングロール来日

*********エリック・ピフェリングがやってきた!********* いつもワイン好きで賑わう、パリの自然派ワインビストロの草分け的存在、Verre Volé, ここで絶大な人気を誇り、かつ店主が、ローヌNo.1の蔵元と薦めるのが、このエリックが造る、ラングロールのワインである。 今回日本へは、3度目の来日となるが、日本とエリックとのつながりは、年々深くなっている。彼のやっていることを最初に認めてくれたのは、日本だという。日本で、いろんな人たちと接し、自分の道が間違っていないことを確信したという。 最初の来日とは違う、威風堂々とした、それでかつ、威圧感のない自然なオーラを、今回の同行中、感じた。                                             エリック&マリーロー参上! *********人間 エリック・ピフェッリング********* 〈幼少期~青年期〉 1962年10月23日アフリカ、ナイジェリア生まれ。 祖父と両親の仕事の関係で、生後2か月までアフリカで暮らしたそうだ。 おじいちゃんは、星の王子様のサン・テクジュペリと同様に、同時代、飛行機のパイロットをしていたそうだが、狩猟が趣味で、ある日、ワニを捕獲に向かったが、逆に川に落ちて、ワニに食べられてしまったそうだ。。。 そのとき、エリックの父親3歳。かなり苦労をしたそうだ。 ともかく、アフリカからフランスに戻り、ニームの村で生活を始めた。 子供の頃から、自然が好きで、屋外で自然に触れて育った。性格的には、押さえつけられるのが嫌いで、とにかく反発しがちな子供だったという。 そして、青年期、父親の影響もあり、養蜂家として働いていたが、母親方のおじいさんが亡くなり、その所有するぶどう畑の相続で、家族会議を行われる。家族一同は、エリックが一か所に落ち着いて仕事するように、また、養蜂家という自然に一番近い環境にいることを考慮して、エリックにぶどう畑を相続するように薦めた。これが、1988年。譲り受けたぶどう畑5ha。ここから、エリックのワイン造りの歴史が始まる。 〈マリーローの父親の教え〉 ぶどう畑の栽培方法も、全く分からないエリックに、昔ながらのぶどうの栽培を教えてくれたのは、ぶどう栽培から引退したばかりの、奥さんマリーローの父親だった。  もともと養蜂家として、自然環境の汚染に不安を持っていたエリックに、マリーローの父親が教えてくれる昔ながらの自然な農法は、スムーズに吸収されていった。 〈エステザルグの出会い〉 1990年から近くの若手生産者が集まる共同組合の組合員になり、ぶどうを売り始めた。 この1990年から2000年の間は、まさに試行錯誤の繰り返しであり、ぶどう畑は、有機栽培へ完全に移行、そして醸造に関しても、いつかの独立を目指して、実験的醸造を数多く行った。 そして、このとき、出会ったのが、当時のエステザルグの醸造責任者のジャン・フランソワ・ニック(現在、フラール・ルージュの生産者)。 あまりにも世間に、工業的で、頭痛のするようなワインが多いことに疑問を持っていた二人は、自然栽培のエリックの経験、ジャン・フランソワの酸化防止剤を使用しない醸造技術をお互いが情報交換し、2002年同時に、お互いの夢を目指し独立をする。L’anglore*ラングロールの誕生である。 *****洪水の年2002年、酷暑の年2003年***** しかし、運命は過酷であった。 独立、最初の年2002年は、雨が多く、ローヌ地方では洪水が発生。収穫量は予定の半分であった。 そしてまた2003年は乾燥、酷暑の年、ただでさえ、暑い南仏のタヴェルをこの熱さが襲い、この年も収穫量は激減した。 2002年の洪水のとき、濁流がぶどう畑を削りとり、一部崖のような断層ができた。それを見てエリックは、自分のぶどう栽培に確信をもった。硬い岩盤質の石を、根っこが、垂直にまっすぐ伸びていることが分かったのである。 テロワールを表現するには、根っこが地中深く入り込み、多種多様なミネラルを吸収しなくてはいけない。エリックのぶどう栽培に間違いはなかったのだ! ********マセラシオン・アロマティック******** ラングロールの現在所有するぶどう畑は、8ha。その大半のぶどうの樹齢は古い。樹齢100年以上のカリニャンやグルナッシュの区画があるが、それらの区画は黒ぶどうに混ざり、ブー・ブラン、クレイレットなどの白ぶどうも一緒に植えられている。それらは、一緒に収穫され、一緒のタンクで醸造される。 これは、昔の南仏の生産者の知恵ともいえる。 コート・ロティでも、シラーに数パーセントのヴィオニエが混ざるが、まさにどうしても熟度の高すぎるぶどうが取れる南仏では、白ぶどうを混植して、一緒に混醸することによって、バランスのとれた味わいを造りだせるのである。まさに、メゾッド・アンセストラル(伝統的方法)である。 エリックは、混植でない区画に関しても、このセオリーを使い、赤ワインに若干の白ぶどうを混ぜるようにしている。 *******自然酵母との戦い******* 2008年のシュマン・ド・ラ・ブリュンヌは、ステンレスタンクで半分、木樽にて半分アルコール発酵をさせようとしたが、ステンレスタンクの半分は発酵が進まず、最終的には廃棄することとなった。 このキュベは、サンソーとアラモンをダイレクトプレスして造るロゼであるが、ぶどうの果皮とマセレーションをしないため、ぶどうの果皮に付着している自然酵母が働きにくいのである。また、2008年は、雨が多く、果皮の自然酵母を流してしまった可能性も考えられる。 そんなリスクの中、ぶどうをダイレクトプレスしたロゼを造りたかった!と挑戦したとエリックは、笑いながら語る。  自然酵母を活かすため、もちろんSo2は、収穫、醸造段階では一切使用しない。赤ぶどうのプレスも、白ぶどうのプレスに圧力でゆっくりとやさしく行う。そして、ワインの液体の移動は全て重力で行い、けしてポンプは使用しない。ぶどうのポテンシャルを最大限に活かしたワイン造りといえる。 *******自然派ワインを造ることは、洋上を帆船で進むがごとし******* 自然は人間より強い。自然な栽培や醸造をすることによって、いろいろな苦難もある。しかし、海の上を進む帆船のように、風に身を任せ、自然を受け入れながら、目的地に向かっていくことが大切なのだとエリックは言う。 *******何かにとらわれず、ただ全力を尽くすのみ******* ぶどうは、年に1回しか収穫できず、もちろんワイン造りも年に1回しかできない。そこで、人間のエゴや、思いこみが入ると、良いワインができない。逆に、良いワインを造らなくてはいけないという思い込みから、自分を解き放ち、無の状態から、その年のぶどうを受け入れ、そこに最善の努力をしなくてはいけない。 *******日本が与えてくれたもの******* ラングロールには、ニュル・パール・アイユールという日本だけの、日の丸ワインとも言われるキュベがある。樹齢100年を超えるグルナッシュから造るワインだが、この区画は、日本のラングロールファンの支援のもと手に入れられたぶどう畑である。このワインには、いろんな人たちの思い、エリックの日本への感謝の思いが込められている。 自然な栽培を始めた当初、除草剤を使用せず、ぶどう畑に雑草を生やし、手作業で畑を耕し、収穫も手摘みで行う、彼の姿を見たタヴェルの回りの生産者達は、エリックの頭がおかしくなったのではないかと馬鹿にした。   また、昔ながらのタヴェルのワインを再現した、彼のワインをAOCは認めなかった。多くのワインは、テーブルワインとして販売することとなった。 そんな中、初めて日本へきて、自分のワインが普通に受け入れられていることに驚き、そして多くのソムリエ、料理人、お酒屋さんが、ワインを褒めてくれ、自分の栽培方法、醸造方法、生き方に共感してくれた。その感動がエリックに自信を与え、さらに彼のワイン造りが進化する原動力になったことは、間違いない。エリックは、今、また高みを目指し前進する。この日本のラングロールファンのためにも !!! 竹下正樹 *******ラングロール写真館******* 到着初日大阪BMOオフィスでくつろぐ二人              大阪セミナー&試飲会 大阪セミナーの後は、La tortugaで、萬谷シェフと、 神戸、玄斎の上野シェフとのコラボレーションで、フレンチと和食とラングロールの饗宴。大勢のラングロールファンの熱気で包まれた。全てのラングロールのワインに、萬谷シェフ、上野シェフが、各1品ずつ料理を作り、その料理の数は、合計18皿となった。まさに、満足。満腹。。。 予約の取れないレストラン高田馬場アミチエにて     ラングロールの家族の一員Tipsy’s志熊さんと Tipsy’sの姉妹店コトトワで打ち上げ          ティプシーズに集合したラングロールファン達 […]

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Jan

『タベルのハチミツ』と呼ばれるラングロールのワイン!

・・・・・・・・・・・・・・・ストーリー・オフ・エリック・ピファーリング・・・・・・・・・・・・・・・・ エリックの物語は70年代初期、彼がまだ10歳の頃に始まりました。彼の父はガール市に在るキャランサックの町で整備士として働いていました。ある日、屋根裏から妙な音が聞こえ、覗いてみたところ、蜂が屋根の下に巣を作っていたのです! エリックの父は蜂に興味を持ち、直感的に巣を保存する事にしました。その数ヵ月後、彼は自分の会社を手放し、養蜂家になろうと決心しました。これがエリックが学んだ初仕事です。 『蜂は集中力と平静を学ぶ学校のようだ。彼らにとって、気候、機嫌、環境、感覚、全てが大事なのだ。彼らにとって毎日が全く違う。人間は蜂達をコントロールできないが、共に歩んでいく事は出来る。ブドウ木と同じだ。人間が参加することは可能だが、指導する事は不可能だ。又、養蜂はワインの勉強にもなるんだ:アロマや勢いを感じ取る・・・私は幼い頃からハチミツと花の香りを常に感じているんだ。』 30年経った今、エリックのワインにはその豊富な香りが漂ってきます。 彼のグルナッシュは穏やかに繊細に育てられ、 そして数々のキュベはまるでブルゴーニュのピノのような感覚です。 テール・ドンブル*Terres d’Ombre、 ピエール・ショード*Pierre Chaude、 ル・シュマン・ドゥ・ラ・ブリューヌ*Le Chemin de la Brune、 レ・トラヴェルス*Les Traverses・・・ シルヴィー・オジュローさん曰く、 『エリックのワインはタベルのハチミツのよう』なのです! 『まるで南仏のボジョレーだ』と他の批評家も発言しています。 『初めてマルセル・ラピエール*Marcel Lapierreのモルゴン*Morgonを飲んだとき、本当に衝撃的だった。彼、そしてジャン・フォアラール*Jean Foillardbは天才だ!』 20年前、エリックは祖母が所得していた4ヘクタールの葡萄園を引き継ぎました。そして更に3ヘクタールを後から購入。2007年ワインは彼にとって、ドメーヌ・ドゥ・ラングロール*Domaine de l’Anglore (Angloreとはオック語でトカゲという意味)の5年目のヴィンテージとなります。 ブドウ木に付いては全て奥さん、マリー*Marieの父から教わりました。 元ブドウ栽培者はエリックに伝統的な教えを伝えたのです。 『50年代と同じ栽培方法を教わった。対処方法はボルドー液のみ。今、この栽培方法を 世間は« ビオ »と呼ぶ。しかし昔はこの栽培の仕方が通常だったんだ。ロゴが無くても、自然と代々と継がれていったものだった。私はこのシステムを様々な形で延長した。ワインにフィルターを掛けなかったり、出来る限り亜硫酸は添加しないなど。時には少し戸惑うようなワインが出来上がるけれど、私はそれが好きなんだ。』 ・・・・・・・・・・・エリックはまさに « ナチュール »な職人なのです。・・・・・・・・・・・ 『1998年、親友であるジャン・フランソワ・ニック*Jean-François Nicq−フラール・ルージュ*Foulards Rouges−と私はワイン造りを始めた。この時ちょうど狂牛病が大問題になっていた時期なんだ。ワインの生産者側として、商品の危険や品質に付いて、政治に付いて、自分のワインに付いて、造り方に付いて、何日間も話し合っていた。そしてどのように新しい考えを持った醸造家達を広める事が出来るかなど。私達はルシヨンのロイック・ルール*Loic Roure −ドメーヌ・デュ・ポシーブル*Domaine du Possible、エドワード・ラフィット*Edouard Laffitte−ドメーヌ・ル・ブ・デュ・モンド*Domaine Le Bout du Mondeや、アルデッシュのジェラルド・ウストリック*G érald Oustric−ドメーヌ・デュ・マゼル*Domaine du Mazelなどの造り手と共に、世間とは違うワイン醸造法を学びました。』 ・・エリックは反抗的で情熱的で空想的なのです。それはエリック自身も認知しています。・・ […]