ワインを愛する気持ちがこの仕事を選ばせたのか、この仕事に就いたからワインを愛するようになったのか、エメ・コメラスは50歳を越えた頃から半生を振り返ってはそのように哲学的な自問に対する答を探すようになった。
具体的な示唆があったわけではなかった。兄がボルドー大学の教授であったことも何処かで影響があったのかも知れない。
だが、彼がお金に不自由ない生活を確保し、余生のことを考え始める時期になってそのようなワインに対する特別な愛情が膨らんできたというのは運命というよりは宿命と呼んだ方がよいだろう。

エメは、ワイン生産地としては知名度の低いラングドック地方の農協組合長だった。
実直な人柄で、多くの人たちから信頼されていた。
安物ワインというレッテルも、数で勝負とばかりワイン最大消費国の底辺の礎を担うのだと自分に言い聞かせて来た。
ところが壮年期の真っ盛りに、ふとこれで良いのだろうかと考えるようになった。
それは、このラングドックという土壌に日々暮らす者として、また誰よりもワインを愛する者として、この故郷の土壌が持つだろう無限大の可能性に挑戦したいという願いが心の扉を叩くからであった。
底辺から頂点への挑戦。
もしかしたら、ずっと以前から分かっていたことなのかもしれなかった。
それなのに無理矢理心に蓋を落としていたのは、矢張り生産者たちへの遠慮があったからであろう。
エメが考える高品質への挑戦は、即ち生産量の激減と結びつくからであった。
しかし自分の大いなる夢を現実化させることこそがラングドック地方の発展を牽引する原動力になると確信したエメは、一軒一軒農家を説得することを決心した。

エメの説得は、徒労に終わった。
初めから結果は容易に想像出来たのだが、それでも自分の意見をぶつけたかったからだ。
彼が提案した内容は、例えば一本のブドウの木から摂れるぶどうの房をこれまでの平均30房から8房程度に減らしてテロワール(土壌の風味)を凝縮するとか、除草剤は一切使用せず雑草駆除は人間の手で行うとかであった。
安いワインを大量に売り捌いて生計を立てていたラングドック地方の造り手たちにとって、この提案は正気の沙汰ではなかった。
何故なら、生産量は約四分の一に減少し、それにも増して人件費は増える。
量り売りが一般的なラングドックのワインでは想像も出来ない贅沢なやり方であったからだ。
しかしエメは徒労と知りながらも、毎日農家を訪問しては説得して廻った。
やがて一年の月日が経ち、賛同者は一人も得られなかった。何度も来るエメに対し、最初の頃は農協組合長として敬服して聞いていた農家たちも、仕舞いには愛想が尽きてしまい、そんなにやりたいのならば自分でやればいいではないかと言い出す者が出てくる始末であった。
エメは流石に落ち込み、長い間心の中の暗い淵を彷徨った。
しかしエメの愛すべき長所は、諦めた後は只管前向きに前進するというところであった。
農協組合長という名誉職を辞任するまでに長い時間は必要なかった。
誰も賛同してくれない以上は、自分でやり遂げるしかない。そう決意した翌週、エメは辞任した。妻も年頃の一人娘も、黙ってエメの決断を見守った。
それからというものエメは、金策と土地探しに明け暮れる毎日を過ごした。
そして1984年、ラングドックのブドウ畑を歩き回った後でエメが白羽の矢を射したのは、AOC コトー・ド・ラングドックで最も自然環境が良いといわれるモンペイルーの25ヘクタールのブドウ畑であった。
自分の持つ財産全てを抵当にいれ、銀行からお金を借りて購入した畑は、前のオーナーがブドウ造りに無頓着な人であったことが寧ろ幸いし、人の手が殆ど加わることのない荒れ果てた自然のままであった。

エメが最初にしたこと。それは一本一本の木に対して語りかけることだった。
彼は来る日も来る日も木に話しかけ、会話した。
見る者たちは怪奇の視線を送ったが、彼は畑の中で実に満足していた。
そうして体力の無い木や病弱な木、そしてやる気の無い木には謝りながら間引きしていった。毎朝日の出と共に畑へ行き、日没まで其処で過ごした。
雑草取りさえも、彼は誰にも手伝わせなかった。そうして3年もの間、エメは只管土壌と木の手入れのみに専心した。
漸くワイン醸造を手がけようとした頃、偶然エメと畑へ行った愛娘はその光景に自分の目を疑った。

そして醸造という格闘が始まった。
エメは、本当に美味しいワインの味というものは十人十色で意見が違うと信じ、地元でもワインの味に煩い者ばかり40人を集めて尊属のモニターとして契約し、シラー、グルナッシュなどの品種毎にどのような味が美味しく感じるかを意見させ、全てを網羅する味というのをそれらから逆算し、農作業から醸造までそれに見合うように調整しようと試みた。
勿論理論的な部分は実兄であるボルドー大学教授が活躍した。
二人三脚で行った試行錯誤のワイン造りは、完成するまでに3年間を要した。
つまり、土地を購入してから6年もの間、ワインは市場に出ることはなかったのである。

エメのワインは、地元モンペイルーでは瞬く間に名声を得た。
営業活動をする時間さえ惜しんで畑へ行くエメにとって、地元で買ってくれる人がいればそれでよかった。
しかしある日、ソムリエ世界チャンピオンのフォール・ブラック氏がラングドックへ来て昼食時に偶然エメのワインを口にする機会を得た。
そしてブラック氏はそのままエメに会いに行ったのである。家族に来訪を伝えると、エメは畑にいるという。
待たせてもらうと言えば、夜まで戻らないという。
仕方なしにブラック氏は自ら畑へ向かった。そこで彼は、衝撃的な光景を見た。

木が喜んでいる・・。木が尻尾を振ってエメらしき人物に寄り添っている。
そんな馬鹿なことが。ブラック氏は目を擦ってもう一度凝視した。
木は動かない。いや、動くだろうが、人間の肉眼ではその動きは見て取れない。
果たして木は固定されていた。
否、しかし木は矢張り喜んでいるように見えたのであった。
ブラック氏の後ろから、道案内について来たエメの娘がその光景を見て、自分が数年前に感じた驚愕を思い出していた。
ブラック氏がその後、公の場でエメのワインのことを賞賛した時の言葉が残っている。
「フランスを代表するワインだ。」

王様のブルゴーニュ、お妃様のボルドーでもない、名も無い南のラングドック地方。
瓶詰めされたワインなんて誰も作らない地方で農協組合長が一念発起して立ち上げたフランス片田舎の誇り。
今では世界中のネゴシアンが買い付けに来て、フランスでさえ売り出された瞬間に売り切れるエメのワイン。
地元では1人2本までしか売ってくれないほど愛されるエメのワイン。
エメとは、フランス語でAime(愛する)。
彼のブドウに対する愛がラングドックという地方を進化させる扉を開いたのである。