22
Août

Club Passion du Vin が提唱する自然派ワイン分類方法

A ブドウ栽培はビオ、ビオディナミ栽培をして創意工夫・努力しているが、美味しいワインを造ろうという意志が見当たらない。自然な栽培をすることで満足しているタイプ。収穫量を多くとってしまったり、醸造途中で補糖したり、香り付人工酵母を使用したり、酸化防止剤を必要以上に使用したりするタイプ。ビオワインの見本市へ行くと、不味いワインが沢山あるのに驚く。 CPVとしては、ビオ・ワインである事がイコール自然派ワインではないことを強調しておきたく、このカテゴリーは自然派から外したが、ブドウの潜在能力は概して高いので実に勿体ない。 最近、ビオを名乗ると売れやすいので、ビオに転換する醸造元が増えているのだが、このタイプが急増しているのは残念なところ。 ただ、地球環境を考える時、少しでも多くの畑がビオになることは喜ばしいことである。理由の如何を問わずリスクの多いビオ栽培をする決断と努力に対しては強く評価したい。でも、ワインは美味しく造ってほしい。 B 栽培上は除草剤、殺虫剤、化学肥料などを使用しているにも関わらず、 醸造では自然派を名乗って酸化防止剤の使用を控えたりするものの、栽培される土壌が弱っているために酵母菌も居なくなるので発酵もされず、結局はテクニックに頼らざるを得なくなってしまう偽自然派になってしまいます。 土台や柱がいい加減な耐震性のない建物と同じで、最近はAと同じくこのタイプも急増しています。 最近の大手有名どころのワイナリーが日本でセミナーをやると、ほとんどのところが自分は自然派であるかのように云うのには驚きである。 すべては畑を見れば一目瞭然である。CPVの推薦する醸造元は必ず我々が実際に畑をみて醸造所もみて現場をみて判断している。 C 栽培上も除草剤、殺虫剤、化学肥料、なんでもござれ、土壌に微生物など皆無の状態。こんな状態の畑からとれたブドウはエネルギーがないので、いろんな醸造テクニックを駆使して化粧する必要がある。ブドウジュースを濃縮したり、酸を足したり、補糖したり、人工酵母を使用したり、テクニックで化粧されたワイン。栽培も醸造も工業的な画一化されたワイン。ただ自然派という観点から外れれば、常に(毎年)同じ味、収穫量は確保出来るという点を評価する人たちもいる。 D 栽培はビオ、ビオディナミ、または公式機関に登録してなくても自然な栽培をしていること。、最重要なことは土壌が生きているということ。 公式ビオ機関の公認を受けている否かは重要なことではない。公認は一つの目安にはなるけど自然派の条件には入らない。 CPVの認める自然派は我々が自分の目で畑を確かめたものに限る。これらカテゴリーはそれにあたる。 ワインは畑で造られると云っても過言ではないほど、CPVでは栽培、農作業を重要視している。健全な土壌に育ったブドウの木は、根が真っすぐ地中深く伸びて土壌のミネラルが詰まった健全なブドウが収穫される。そのように健全なブドウを原料として醸造すると、人工酵母を添加しなくても、酸化防止剤の使用を極力控えても、素晴らしいワインが出来る。 醸造元がよく云う、『私は美味しいワインを造ることが目標であり、その為には美味しい健全な葡萄が必要であり、その為には土壌を生かすビオ的な栽培が必要であった。勿論、一本の木からとれる収穫量を少なくして濃縮した葡萄をつくり、醸造上も極力ワインに圧力がかかるようなポンプなども使用せず,土壌から得た純粋な葡萄の旨味を最大限に表現したワイン』 これが自然派ワインである。 このCPVが提唱する自然派ワイン(D)をタイプによって分類すると、以下のようになる。 e: 超自然派 f点の孤高の超自然派を頂点にeは自然派中の自然派。ピュアな葡萄の果実味が全面にでて、土壌からくるミネラルでしっかり支えられているタイプ。 (フィリップ・パカレやマルセル・ラピエール、マルセル・リショ、ダール・エ・リボなど) 栽培も醸造も自然度が満点に近いもの。 d-e : 独創派 その造り手の個性が全面にでている個性的なワイン、この人間しかこんなワインができないという強烈な特徴、独特な風味をもったワイン。 (ゴビーとか、ポール・ルイ・ウジェーンヌ、レグリエール、マーク・ペノのようなワイン) 自然度はかなり高い方。 c-d : 風土派 造り手の個性はそれほどワインに出ておらず、そこの土壌や風土、人などが調和がとれてワインに表現されているもの。 果実味が強く、ミネラル感も濃縮度も中庸で比較的気軽にスイスイ飲めるタイプ。 (エステザルグのワインとかラトゥール・ボワゼなど) b-d : 正統派 栽培や醸造も自然であり、熟成の仕方が樽を使用して比較的、樽香がワインに残るタイプのワイン。自然派ファンの中には樽を必要以上に嫌う人がいる。しかし栽培も醸造も自然にやっていれば立派な自然派だ。樽風味は好みの問題である。ボルドーの自然派に多いタイプ。 (シャトー・ド・プイ、シャトー・メレ、シャトーラガレット、シャトージョンキエール、プピーユのアティピックなど) a-b: バランス派 栽培も醸造も極力自然にやって、なお価格が比較的安くて、カリテ・プリ(価格と品質)のバランスがよいもの。 自然度はやや低くなるが、立派な自然派ワインとCPVでは考える。 最重要項目である畑は立派に土壌が生きている。安くて安全で美味しいワインという点で、非常にバランスが良い。 グレーゾーン・ワイン 数学の世界と違って、ここから先は自然派ではないと、白黒はっきりできない部分、ぎりぎり自然派に入らないが、まあ許せる範囲というか車のハンドルの“遊び”の部分のようなもの。中には自然派に入れても良いものもある。生身の“人間”と千変変化する“自然”が織りなすワインの世界は、数学の世界のようにはわりきれない部分がある。 グレーゾーンA 栽培は頑張ってるが、醸造はちょっぴり手を抜いているタイプ。 または、自然のいたずらでやむおえずテクニック的なことをしなければならない場合など、 例えば、一年間、完璧な自然栽培をしたにも関わらず、収穫直前に雹と大雨が降って、葡萄が傷んだ場合雑菌が繁殖する危険があるので、収穫後SO2を入れざるをえない時もある。 我々人間が何か悪いものを食べて、食中毒になった時、薬を飲まざるをえないようなもの。 (特に栽培自然度が高いものは、そこそこいい物もあるゾーン。) […]

1
Juin

なんと・・おはよう朝日に出演!!

皆様お久しぶりです!じ・実はわたくし、3月末に日本に本帰国してしまいました。それで、これからは日本でのワインや料理に関係する興味深い情報を配信して行きたいと思います。今回は、レストラン・リポートというほどのものではなく、手前味噌なんですがぁ・・・・、 帰国早々うちの奥さん(初登場ですが・・)がちょっとやってくれました。元々料理が趣味で、パリ時代もリッツのお料理コースへ通って資格取ったり、色々な先生に従事して修行したりしていたのですが、今回帰国してPiatto-Piattoというお料理レシピを提供したり料理教室を運営しているプロ団体に所属させて頂きまして、早速テレビ出演を果たしました。番組名は、朝日放送の「おはよう朝日」で、本日(6月1日)放映されました。課題は、和風麺を使ってフレンチの前菜風に仕上るというもので、家族が言うのもなんですが、中々たいした出来映えでした。 詳しくは、以下のURLを見てみてください! http://ameblo.jp/piattopiatto/page-1.html#main http://parisroset.exblog.jp/ 実は、今回のレシピはワインに合わせるという逆算で考え出されたものでした。そのワインとは、Nicolas Carmarans氏のロゼ、あのH2O FACTEUR です。 皆さん、是非一度お試し下さい!

15
Mar

丘の上の雲

ワインを愛する気持ちがこの仕事を選ばせたのか、この仕事に就いたからワインを愛するようになったのか、エメ・コメラスは50歳を越えた頃から半生を振り返ってはそのように哲学的な自問に対する答を探すようになった。 具体的な示唆があったわけではなかった。兄がボルドー大学の教授であったことも何処かで影響があったのかも知れない。 だが、彼がお金に不自由ない生活を確保し、余生のことを考え始める時期になってそのようなワインに対する特別な愛情が膨らんできたというのは運命というよりは宿命と呼んだ方がよいだろう。 エメは、ワイン生産地としては知名度の低いラングドック地方の農協組合長だった。 実直な人柄で、多くの人たちから信頼されていた。 安物ワインというレッテルも、数で勝負とばかりワイン最大消費国の底辺の礎を担うのだと自分に言い聞かせて来た。 ところが壮年期の真っ盛りに、ふとこれで良いのだろうかと考えるようになった。 それは、このラングドックという土壌に日々暮らす者として、また誰よりもワインを愛する者として、この故郷の土壌が持つだろう無限大の可能性に挑戦したいという願いが心の扉を叩くからであった。 底辺から頂点への挑戦。 もしかしたら、ずっと以前から分かっていたことなのかもしれなかった。 それなのに無理矢理心に蓋を落としていたのは、矢張り生産者たちへの遠慮があったからであろう。 エメが考える高品質への挑戦は、即ち生産量の激減と結びつくからであった。 しかし自分の大いなる夢を現実化させることこそがラングドック地方の発展を牽引する原動力になると確信したエメは、一軒一軒農家を説得することを決心した。 エメの説得は、徒労に終わった。 初めから結果は容易に想像出来たのだが、それでも自分の意見をぶつけたかったからだ。 彼が提案した内容は、例えば一本のブドウの木から摂れるぶどうの房をこれまでの平均30房から8房程度に減らしてテロワール(土壌の風味)を凝縮するとか、除草剤は一切使用せず雑草駆除は人間の手で行うとかであった。 安いワインを大量に売り捌いて生計を立てていたラングドック地方の造り手たちにとって、この提案は正気の沙汰ではなかった。 何故なら、生産量は約四分の一に減少し、それにも増して人件費は増える。 量り売りが一般的なラングドックのワインでは想像も出来ない贅沢なやり方であったからだ。 しかしエメは徒労と知りながらも、毎日農家を訪問しては説得して廻った。 やがて一年の月日が経ち、賛同者は一人も得られなかった。何度も来るエメに対し、最初の頃は農協組合長として敬服して聞いていた農家たちも、仕舞いには愛想が尽きてしまい、そんなにやりたいのならば自分でやればいいではないかと言い出す者が出てくる始末であった。 エメは流石に落ち込み、長い間心の中の暗い淵を彷徨った。 しかしエメの愛すべき長所は、諦めた後は只管前向きに前進するというところであった。 農協組合長という名誉職を辞任するまでに長い時間は必要なかった。 誰も賛同してくれない以上は、自分でやり遂げるしかない。そう決意した翌週、エメは辞任した。妻も年頃の一人娘も、黙ってエメの決断を見守った。 それからというものエメは、金策と土地探しに明け暮れる毎日を過ごした。 そして1984年、ラングドックのブドウ畑を歩き回った後でエメが白羽の矢を射したのは、AOC コトー・ド・ラングドックで最も自然環境が良いといわれるモンペイルーの25ヘクタールのブドウ畑であった。 自分の持つ財産全てを抵当にいれ、銀行からお金を借りて購入した畑は、前のオーナーがブドウ造りに無頓着な人であったことが寧ろ幸いし、人の手が殆ど加わることのない荒れ果てた自然のままであった。 エメが最初にしたこと。それは一本一本の木に対して語りかけることだった。 彼は来る日も来る日も木に話しかけ、会話した。 見る者たちは怪奇の視線を送ったが、彼は畑の中で実に満足していた。 そうして体力の無い木や病弱な木、そしてやる気の無い木には謝りながら間引きしていった。毎朝日の出と共に畑へ行き、日没まで其処で過ごした。 雑草取りさえも、彼は誰にも手伝わせなかった。そうして3年もの間、エメは只管土壌と木の手入れのみに専心した。 漸くワイン醸造を手がけようとした頃、偶然エメと畑へ行った愛娘はその光景に自分の目を疑った。 そして醸造という格闘が始まった。 エメは、本当に美味しいワインの味というものは十人十色で意見が違うと信じ、地元でもワインの味に煩い者ばかり40人を集めて尊属のモニターとして契約し、シラー、グルナッシュなどの品種毎にどのような味が美味しく感じるかを意見させ、全てを網羅する味というのをそれらから逆算し、農作業から醸造までそれに見合うように調整しようと試みた。 勿論理論的な部分は実兄であるボルドー大学教授が活躍した。 二人三脚で行った試行錯誤のワイン造りは、完成するまでに3年間を要した。 つまり、土地を購入してから6年もの間、ワインは市場に出ることはなかったのである。 エメのワインは、地元モンペイルーでは瞬く間に名声を得た。 営業活動をする時間さえ惜しんで畑へ行くエメにとって、地元で買ってくれる人がいればそれでよかった。 しかしある日、ソムリエ世界チャンピオンのフォール・ブラック氏がラングドックへ来て昼食時に偶然エメのワインを口にする機会を得た。 そしてブラック氏はそのままエメに会いに行ったのである。家族に来訪を伝えると、エメは畑にいるという。 待たせてもらうと言えば、夜まで戻らないという。 仕方なしにブラック氏は自ら畑へ向かった。そこで彼は、衝撃的な光景を見た。 木が喜んでいる・・。木が尻尾を振ってエメらしき人物に寄り添っている。 そんな馬鹿なことが。ブラック氏は目を擦ってもう一度凝視した。 木は動かない。いや、動くだろうが、人間の肉眼ではその動きは見て取れない。 果たして木は固定されていた。 否、しかし木は矢張り喜んでいるように見えたのであった。 ブラック氏の後ろから、道案内について来たエメの娘がその光景を見て、自分が数年前に感じた驚愕を思い出していた。 ブラック氏がその後、公の場でエメのワインのことを賞賛した時の言葉が残っている。 「フランスを代表するワインだ。」 王様のブルゴーニュ、お妃様のボルドーでもない、名も無い南のラングドック地方。 […]

15
Fév

そこにしか照らない太陽

蔵元名:Gerard SCHEULLER et Fils 産地:アルザス地方 品種:ピノ・ブラン、リースリング、ピノ・グリ、トケイ・ピノ・グリ、ゲブルツトラミネール、ピノ・ノワール  コルマール市周辺には美しい街が点在していて、春から夏にかけて多くの観光客で賑わいを見せる。歴史的にドイツとの領土争いの渦中にあったこともあり、木材を部分的に使用した建築様式も色の使い方も生粋のフランス製ではなく、何処と無くロマンチックなメルヘンを感じさせてくれる。Husseren-les-Chateaux はコルマール市からほんの少し南にある村であるが、そんな観光地とは違いワイン畑に囲まれた小さな農村である。ブルーノはワイン蔵元を経営する父ジェラールの一人息子としてこの村に生まれ育ったが、少年時代のブルーノの頭の中はサッカーのことで一杯だった。ぶどうやワインは最も身近な物ではあったが、大した興味は持っていなかった。それは、ぶどう栽培への異常とも言える父親の拘りに戸惑いを感じていたからであった。ジェラールは朝早くから日が暮れるまで、一日中畑で作業をするのが日課であった。周囲の畑ではそんな者は誰一人居なかった。1970年代に入りフランスは農業の近代化を迎え、作業が高効率化され生産量の確保が約束されるようになったからだ。昔ながらのやり方を続けるのはジェラールだけだった。ブルーノは父親を尊敬していたが、明らかにジェラールより努力が少ない近所の蔵元たちが順調に企業として成長しているのに、我が家はそれ程でもないことに歯痒い空周りを感じていた。  ブルーノは勉強が苦手であった。幼い頃からサッカーや昆虫採集など、やり始めたら時間の経つのも忘れるほど没頭してしまう集中力があった割に、学校へ行くと何故か集中出来ないのだった。どうもブルーノは教科書で勉強するタイプの学者肌ではなく、自分で課題を見つけて研究する独創派のようだった。高校進学を考える際、ブルーノは漠然と農業学校進学を決断している。それは、一つの蔵元オーナーの一人息子として当然将来跡継ぎになるという程度の気持ちであった。しかし漠然と選択した農業学校が、ブルーノの人生を大きく飛躍させることになるのである。農業学校で学んだことの多くは、効率化と安定した量産を確保するための近代農業であった。それは、まさに父ジェラールが背中を向けてきたことであった。ブルーノはしかし、それに対して愛情も憎しみもなかった。ただ、事実として教科書と父親は全く別なものであった。ブルーノを考えこませたのは、どうして父親はそこまでして昔ながらの造り方に拘るのかということであった。少年時代、日が暮れてボールが見えなくなる寸前までサッカーをした後の帰り路、自宅へ急ぐブルーノは近所の蔵元たちが立ち話で父親の噂をしているのを聞いたことがあった。 「それにしても、あれだけ拘ったところで儲からなければ何にもならないじゃないか。」 「しかし、あの男が栽培するぶどうは確かに違う。俺の畑なんか同じ区画で奴の隣だというのにさ、収穫するぶどうの艶まで違うんだぜ。あっちは完全に熟してやがるんだ。」 「まあ、いいさ。俺たちは金儲けのために事業としてやってるんだ。近代農業になって以来、農作業はうんと楽になったし、収穫量もある程度見込めるようになった。ぶどうの出来、不出来で味も左右されにくくなった。まさに文明の力ってやつだよ。それに乗らない奴さんが変人なのさ。」 ブルーノは農業学校卒業の年の春休み、子供の頃偶然聞いたその話をふと鮮明に思い出した。そして普段は道から見るだけであった父親の畑を見に行った。思えば、父親の職場である畑へはそんなに足を踏み入れたことがなかった。そこは父親の聖域であったし、ブルーノを強要して連れ出したこともなかった。ただ、毎年収穫の時期にぶどうを担いでトラックまで往復する位であった。かくしてブルーノは父親の畑の前に立ち、愕然とした。目の前に広がる雄大なぶどう畑。その中には沢山の蔵元が所有する畑が混在し、一見は見渡す限り一枚のぶどう畑のように見える。しかし実は何十何百という所有者によって細分されていて、それぞれの境界線にはワイヤーや杭で印がつけられているのである。ジェラールの畑、そこは明らかに周囲のそれとは違っていた。いや、素人なら違いに気がつかないかもしれない。自分は農業学校で一通りぶどうの栽培からワイン醸造までを学習したから分かるのだろう。ブルーノはそう思った。しかしそれにしても・・。彼は勿論父親を尊敬していたが、それは父親としてであった。しかし男として、仕事人として父親がここまで凄いとはその時まで気がつかなかった。先ず剪定の短さが目に付いた。周りの畑では、一房でも多く収穫しようとして、剪定は出来るだけ長く残しているのに対し、ジェラールの畑では一本の枝に多くても二つしか芽が残っていなかった。これだけで収穫量は周辺の畑の三分の一から四分の一になってしまう。次は土壌である。綺麗に雑草が抜かれているその土壌は、まさにジェラールが毎日朝から晩までかけて手入れしたものである。隣の畑を見てみれば、除草剤を撒いて少し経った頃なのだろう、雑草が農薬によって枯れ果てて一面がきつね色に蔽われていた。雑草は死ぬが、ぶどうの木は死なない程度の農薬というわけだが、そんな土壌で栽培されたぶどうがテロワールを健全に再現するはずがないと確信した。さらに細かい所を見れば、根っ子の太さが周囲に比べて太い。樹齢だけではない、生命力の違いが感じ取れた。専門家であれば、一目瞭然で地中に伸びる根っ子の長さが格段に違うことが分かる。ブルーノは、身体に電流が流れるような感覚を覚えた。それは、父親への尊敬の念や周囲への軽蔑から来るのではなかった。正誤の問題ではなく、純粋に「最高の素材」を使って「至福のワイン」を自分が仕立ててやろうという野心に駆られたのだった。ふと見ると、ジェラールが畑の真ん中付近からこちらを不思議そうに見つめていた。畑の中にしゃがみ込んで作業していたようで、ブルーノも気付かなかったのである。  その年の夏、農業学校を卒業したブルーノの挑戦が始まった。先ず最高級品質のぶどうが何故今まで特別なワインならなかったのかを研究することにした。そしてそれは存外容易に解明出来た。ジェラールのワイン醸造は、工夫というものが一切無かったのだ。それは喩えて言うなら、最高の素材で料理を作る際、そのままの姿で焼くか煮るだけのようなものであった。切り方を工夫したり、香草や調味料を凝ってみたり、燻製にしてみたりといった工夫がなかった。ブルーノの試行錯誤の日々は続いた。兎に角独創的なワイン造りを心がけた。例えばリースリングを亜硫酸無しで五年間熟成させたり、品種毎にノン・フィルターの実験をしたり、普通ならやらないことを試みた。当然失敗したワインは売り物にならない。陶器職人のように、納得の行かない作品は次々に捨てられた。何とか納得出来るワインが出来始めたのは、彼が醸造を手伝い始めて約10年が経過した1990年頃であった。手前味噌ではない、明らかに周囲の蔵元とは段違いのワインであった。やっと光明が射してきたシュラー家だったが、そこで大きな壁が立ちはだかったのであった。AOC協会である。AOCとしての認定を受けるため、全ての蔵元は毎年試飲検査に認められなければならない。その頃のシュラーのワインは何処よりも素材が優れている上に、その素材を何倍にも増幅させた膨らみが味にあった。AOCの意味は、地域色(テロワール)を忠実に表現することであるから、シュラーこそアルザスAOCの横綱といえるはずなのに、いくつかの品種で格下げされてしまうという屈辱を味わわされたのだった。明らかに卓越したワインを造っているのに、何故そんなことになってしまうのか。自暴自棄になりかけたブルーノを救ったのは、古くから付き合いのあるネゴシアン(ワイン買付業者)たちであった。通常格下げされたワインはその価格も著しく下がってしまう。しかしシュラーのワインの価値を知るネゴシアンたちは、AOCの等級に左右されることなく安定した価格でワインを買ってくれたのだった。そしてそういった気概のあるネゴシアンたちは、確実に販路を伸ばしてくれた。そういったネゴシアンたちは、AOC協会が農業改革以降、随分と変わってしまったと常に嘆いた。つまり、昔のAOCがテロワールを忠実に表現することを査定の条件にしていたのに対し、技術による品質と味の安定、つまり人の手によって調整された味を査定の条件に変えてしまったのである。行政がそうなると、自然的に蔵元たちは市民権を得るための最短行程を歩むようになり、如何にしてAOC協会に気に入られるか、すんなりパスするかという邪心ばかりが先行するようになり、その土地独特の味わいというものが薄れ、AOC毎に金太郎飴のような同じような顔(味)をしたワインが増える結果になった。ブルーノは、父ジェラールの生き様を思い、何があっても世間の流れに屈することなくアルザスで一番のワインを造り続けようと意を決した。  90年代の終わり頃になり、あるネゴシアンがシュラーのピノ・ノワール(LN012)の記事を地方雑誌に掲載したことがあった。「ロマネ・コンティより旨い」当時一本千円程度だったワインが、何十万円もするワインより旨いなんて、プロのネゴシアンが口にすること自体正気の沙汰ではなかった。それ以降、日本でも知る人ぞ知るワインになり、愛好家たちの間で取り囃されるようになった。昨今では瓶詰めと同時に完売してしまい、シュラー一家が飲む分さえ残らない始末である。喜びに浸るシュラー父子かと思いきや、意外にも彼らは落ち着いている。寧ろ、ブルーノは言う。「アルザスのテロワールは、リースリングやムスカ、ピノ・グリやゲブルツトラミネールなどの白ワインが主流。何故ピノ・ノワールだけが持て囃されるのか、理解出来ない。シュラーの一番の持ち味は白ワインなのに。」そんなブルーノがジェラールは誇らしくて堪らない。父子二人三脚の挑戦は、終わりが無い。算盤勘定の無い彼らの蔵元にだけ、アルザスの太陽が照っているような錯覚にさえ襲われる。

15
Jan

Gパンのシンデレラ

蔵元名:Domaine de la Sénéchalière 産地:ロワール地方(ナント地区) 品種:ムロン・ド・ブルゴーニュ(ムスカデ) ムスカデというワインは昔、ブルゴーニュ地方で造られていました。ぶどう品種の名前から見てもそのことは容易に想像が出来ますよね。それが後にロワール地方の方が適した土壌だと考えられるようになり、今のムスカデになったのです。しかし一つ残念なことは、多くのムスカデ生産者たちに逸品を目指す志しが見られず、安物量産ワインを造るのだという割り切った空気が漂っていることです。しかしドメーヌ・ド・ラ・セネシャリエールのマーク・ペノ氏は違いました。「繊細さではモンラッシェにも負けない!」真顔でこんなことを言う生産者はムスカデ地区にはペノ一人しかいません。そしてそんな拘りの芸術家は商才に恵まれないものだから、経営は常に不安定で、一時は会社更生法が適用される始末。でもそんなペノの才能を信じ続ける最愛の奥さん(ヨレーヌさん)と愛娘(カレルさん)に支えられてマークは自分の信じる路を突き進むことになりました。 ペノの拘りは想像を遥かに超えていました。ムスカデで拘りといえば、通常SUR LIE(シュール・リー)と呼ばれるもので、これは醸造中に出来たぶどうや酵母の死骸の澱(LIE)をそのまま底に残した状態で、アルコール発酵後から最低でも収穫の翌年3月末まで熟成させるものです。これをすることで瓶詰め直前までその状態を維持し、最も旨みである澱から最後の最後までエキスが溶け出すのです。でもペノはこれ以外に、NUITAGE(ニュイタージュ)という誰もやっていない製法を導入しました。これは夜中に極低温で一部発酵させるのですが、厳選された手摘みぶどうを炭酸ガスの充填されたタンク内に房ごと入れるのです。すると、ぶどう粒の細胞内でゆっくりと還元的発酵が始まるのです。温度12℃で約6時間、凡そ1晩かけて行った後(午前3時頃)に房の茎を取り除き、圧搾してアルコール発酵させるのです。茎ごとタンクに入れるというのは、とても勇気が要ることです。何故なら、普通は植物臭く、土臭くなるので除梗するからです。でもペノのぶどうは茎までも完熟させている自信があるので、風味を複雑にするという一環としてこのニュイタージュを丸々茎ごと6時間行うのです。この6時間という数字と深夜という時間帯に至るまでには膨大な時間と労力、費用を引き換えにしなければなりませんでした。こんな凄い手間暇かけたムスカデですが、ペノは一切コンクールには出品しません。ぶどうの完熟に拘る余り、ミュスカデコンクールのサンプル提出期限に間に合わないからです。でもそんな拘りを分かってくれるのは、家族とほんの僅かな人たちだけでした。ペノは口下手で商売も下手、ワインは中々売れませんでした。唯一の頼りは伊藤さんの日本への販売でした。 或る時、ペノはパリへ行商に行きました。ライトバンに何ケースか積んで、ワイン屋さんやレストランを訪問するのです。でも真剣にペノの話を聞いてくれる処は中々ありませんでした。口下手のペノは、初対面の相手へ言葉巧みに自分の気持ちを伝えることさえ儘ならなかったのでした。石畳の小路をライトバンで揺られながら、サンプルのワインを持って一軒一軒扉を叩きましたが、どうしてもサンプルを飲んでもらうまで行き着けません。矢張り一般的に安物量産ワインという認識を持たれているワインなので、余程のことでもない限り態々試飲するという気持ちにならないのです。「やっぱりコンクールに出して上位入賞するとか、AOC協会やネゴシアンと仲良くなったりしないと売れないんだ。」そんな考えが頭を過ぎりました。疲れ果てたペノは、最後の夜に自然派ワイン通が集うパリ20区にあるワインビストロへ客として行きました。ペノはその店へ行くのは初めてでしたが、そこのオーナーに偶々ワインが売れないことを相談したのでした。そのオーナーは、ペノの実直さに興味を示し、ワインがあるか聞きました。丁度近くにライトバンを駐車していたので、急いで何本か持って来、飲んでもらいました。無ろ過タイプで白濁りというユニークなムスカデでした。「白濁したムスカデか、珍しいな。初めてだよ。」そう言うとオーナーは一口飲んで、息を詰まらせました。(これがムスカデ?なんて繊細なんだ。まるでネクターじゃないか!) 「ラベルが貼ってないが、これは何という名前なんだ?」 「名前はつけていません。ムスカデです。」 「一本いくらだ?」 「○△フラン。」 「何?そんなに安いのか?今在庫は何本あるんだ?」 「○△本あります。」 「よし、全部買った!あっ、それからこのムスカデの名前だけど、俺が命名してやる。Chapeau Melon(シャポー・ムロン)がいい。」 こんな会話が交わされ、ワインは完売したのですが、それ以上に幸運であったのは、このレストランは有名なワイン屋のオーナーや味にうるさいパリジャン、パリジェンヌたちの憩いの場であったことです。この時からシャポー・ムロンは、ワイン通たちの間で名を馳せて行きました。フランス語でシャポーとは、帽子の他に脱帽という意味があり、ムロン・ド・ブルゴーニュ(ムスカデ)の脱帽というこれ以上ない賛辞だったのです。   それから暫くした或る日、漸く経営も安定し、ワイン造りに精を出すペノに途轍もない朗報が寄せられました。7月14日はフランス革命記念日、大統領は毎年この日に有力者を招いてガーデンパーティーを催します。そのパーティーには必ずワインが振舞われますが、その歴史は常にグランヴァンばかりでした。それが2003年7月14日、その歴史は変わりました。シャポー・ムロンに白羽の矢が刺さったのです。ドレスなんて着たことのない田舎の娘がジーンズを穿いたまま貴族のパーティーに紛れ込んで、偶然居合わせた王子の心を射止めたと言っても過言ではないような事件でした。これは偶々ガーデンパーティーの宴会責任者があるレストランでシャポー・ムロンを口にしたことがきっかけでした。ペノがエリゼ宮に配達に出向いた帰り際、厳重な警戒態勢の下で強面の警官に止められ、何やら詰め寄られていました。記念の配達に同伴したニシは中へ入れてもらえなかったので外で1人待っていましたが、ペノの身に何が起こったのか不安でたまりませんでしたが、笑みをこぼしながら戻ってきたペノから話を聞いて肩を撫で下ろしました。「シャポー・ムロンは何処へ行けば買えるんだい?」ニシとペノは子供のようにはしゃいで抱擁しあいました。凸凹したパリの小路をライトバンで駆けずり回っても売れなかったペノのワインが、今や大統領のパーティーで使用されることになるなんて想像もしなかったことです。でもペノは相変わらず飄々としてにこにこ笑っています。「シャポー!」ニシはそう叫ぶと、被っていた帽子を太陽に向けて放り投げました。

22
Août

シチリアのポモドーロ♪

ご無沙汰しています、きみたけです。 5月に夏が来たと小躍りしたのも束の間、6月以降今年の夏はもう来ないことが判明してしまいました。しかし、そんなことで諦める私ではありません。こうなったら行ける所まで南下してやろうと決意し、先週はシチリアまで行ってきました。  いい感じでしょ?寒いパリとは違って、カターニャ空港に着くや否や35℃!の暑さ。レンタカーの冷房を最大に設定し、いざホテルへ直行!カターニャから北へ60Km程行った所にあるレトヤンニという小さな村で、近くで有名な場所といえばタオルミーナになります。 取り合えず腹ごしらえということになり、やっぱりイタリアなのでパスタ!これがまた頬っぺたが落ちるのではないかという程に旨い!写真は手長海老とシチリアトマトのパスタ(22ユーロ也)、そして贅沢な雲丹のスパゲティー(20ユーロ也)! そしてワインはシャルムというシチリアのロゼを頂きました。これがまた魚介類パスタにグンバツに相性良くて感激。 イタリアワインもこれから勉強せなあかんと思いました! それから次は青の洞窟。これってカプリ島のやつしかないと思っていましたが、イタリアには実は青の洞窟って沢山あるようでここシチリアにもありました。イゾラ・ベラという美しい海岸(ここって、フランス映画のグラン・ブルーの舞台になった場所だって知ってた〜?)へ行くと、いかにもアルバイトでやってそうな漁師さんが、「グロッタ・アズーラへ連れてくよ〜。お代は一人たったの15ユーロだぁ。さあ、乗った乗った。」みたいな感じで営業活動してる。グロッタ・アズーラってのがイタリア語で青の洞窟っていう意味。それで営業活動に負けて行って来ました。   いやあ、神秘的でとても綺麗でした。それで漁師のおっちゃんがその後でこれがワシ流だとばかり、大海原で突然エンジンを止めてイカリを降ろし、「飛び込め〜」!息子たちは引いてましたが私は船首から豪快にザッパーン!海中は見事にエメラルドブルーでした(写真でお見せできないのが残念)。 しかしシチリアで一番感動したのは、やっぱりポモドーロ(トマト)でした。世界一のトマトはパッキーノ産(シチリア南部)というだけあって、その旨さたるや、最早野菜ではなくフルーツでした。 この味を何とか表現しようと悩みましたが、最終的に到達した表現としては、種無しぶどうの味をちょっぴりトマトっぽくした感じ、となりました。 というわけで、シチリアはとても楽しかったです。

15
Fév

今年のボジョレーは?

ボジョレー・ヌーボー用のぶどうは収穫も終わり、マセラシオンが始まったばかりです。 今年の夏、7月は105年ぶりの猛暑となり非常に暑く、2003年の再来か?このまま続くかなと期待していたら8月は涼しくなり、少し雨も降りました。また局部的に雹が降り、この影響でカビが発生した蔵元もかなりありましたが、9月に入ってから晴天の日が戻って日差しがたっぷり降り注いでくれたお陰で、ボジョレー全体的にぶどうは順調に成熟して糖と酸のバランスが見事に取れています。全般的に皮もしっかりと厚いので、鮮やかな色付きのワインになるでしょう。 局部的に雹にやられた畑は、カビが大発生していることもあり、収穫時に選別作業を厳しくやった醸造元とそうでない醸造元の差が大きくでる年となるでしょう。 作り手の腕の見せ所の年となるでしょう。 タイプとしては一般的に軽やかなボジョレ−になりそうです。 ポリシ−のしっかりした醸造元のヌ−ヴォ−はとても期待出来る年ですよ! さてパリ発クラブ・パッション・デュ・ヴァンがお勧めする自然派ヌーボーの中で、本日、紹介したいのは、かの有名なパカレと、ブラヴリエールの二つです。 −フィリップ・パカレ− 9月の雨が原因で少しカビが出ましたが、収穫時に時間をかけて良いぶどうだけを厳選しました。カビでやられた葡萄を切り落として、健全な葡萄のみを仕込みました。 収穫が終わった畑は、切り落とされた葡萄の絨毯のごとくになっていました。 ガメイのエレガントな風味が生きています。 やさしい酸とパカレ独特の果実味のバランスがとれたグイグイ飲めるジュ−シ−なヌ−ボ−になりそうです。 酸っぱいヌーボーの味が普通だと思っておられる日本の皆さん、これ飲んでぶったまげて下さい。 −ブラヴリエール− この畑ではカビは発生しませんでした。理由は冬の短い剪定を今まで以上に短くしたことが奏功したのです。品質を求める熱い姿勢が天候の悪影響を見事にカバーしたといえます。 クロッシュと呼ばれている鐘の形をした標高300メ−トルの畑に栽培されている60歳の古木には一本の木に4〜5房の葡萄しかとれず、素晴らしい葡萄が収穫されました。 雹と湿気によるカビの大発生のボ−ジョレ地区の中で、今年のこのブラヴリエ−ルの作柄は飛び抜けて素晴らしいものになるでしょう。 では今回はこの辺で失礼します。 by Kimitake